昭和45年03月02日 朝の御理解
御理解 第62節
「昔から、人も良けれ我も良けれ。人より我が尚良けれ。と云うておるが、神心をしても、わが身の上におかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じ事。一段一段進んで行くのじゃ。俄に先生には成れぬぞ。」
62節にこの様にあります。61節にも「神心と成りておかげを受けたら、神心に成りて人に丁寧に話をして行くのが真の道を踏んで行くのぞ。」と云う様に、おかげを受けた事を丁寧に話をして行くと云う事は、そこに又自分と同じおかげを受けて行く人が出来て行く為に、話をして行くのですよね。私がおかげを受けた。私が助かったと、そこに、たとえば同病合い憐れむと云った様な、そこに難儀な人を見たら、話をしなければならない。しかも、それが、神心となりて、自分がおかげを受けて助かった。
この人も助かったら、どんなにか有り難い事に成ろうかと云う様に、その神心を持って、話をして行くのが真の道を踏んで行くのであると同様にですね。62節もやはり。「人より我が尚良けれと云うて居るが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて」と。ですから、おかげを受けた、おかげを受けて行かなければ、人には話は伝えられない訳です。「おかげを受けたら神心となりて」と、61節に仰って居られる。
62節も「わが身におかげを受けて、後に人を助けてやれ」と。ですから自分がおかげを受けると云う事が問題なんですけれども、まあだこん位なおかげじゃ人に話されんと云った様な事はないのです。この位なおかげを受けておる事を、話したらいいのですからね。小学校に通うて、中学校で習う様な話が出来るはずがないのですから。中学校に行ったって、この位なおかげしか頂いてないから人には話されない。
大学の話をしようとするから出来んのであって、中学校に行ったら、中学校で受けた程度のいわば勉強なら、又、小学生に教えてやる事が出来るだろうと思う様にですね。ですからそこの所を皆さんがひとつ本気で心掛けねばいけんと思うのですよ。何時迄たっても、信心の話を人に伝え様とも思わない。それこそ人より我は尚良けれと云う様なふうに云うけれども、わが身におかげを受けたら伝えて行かにゃいかんのです。
しかもそれが神心となりて、私程度にでもおかげを受けておるその事をです。ね話して行くのです。最後に「一段一段進んで行くのじゃ。俄に先生にはなれん。」と仰る。俄に先生に成れるはずはない。俄に小学校から大学に行けるはずがない。ですから現在自分がおかげを受けて居ると思う事を、それ以下の事を話したらいい。私共詳しい事は解らん。本当な事は解らん。けれども私が実際頂いているおかげ。例えば初めてお参りをして来た、御教えを受けた。御教えを受けたら本当に今まで知らない。
信心ちゃこんなもんだと聞いて成る程と思うた。成る程と思った所だけを、話して行ったらいい。私はそう云うですね。一つの訓練と云うか、人に伝えて行く稽古をなされる所に、最後に「一段一段進んで行くのじゃ。」と仰る一段一段進んで行く事が出来ると思うのですよ。これは、不思議ですよ。何の稽古でもね。じぶんが少し覚えて来た事をですね。家に帰って、それ以下の人に教えれる場があったら、非常に稽古が上達するです。私、若い時に、三味線なんか弾きましたからね。習うて来るでしょう。
それで家でおさらいをしてみる。それをまたんなら誰かもっと素人の人に教えてあげますとですねえ、もう自分の物に成るです。教えて行く内に。先日ああ佐田ささんだったですか、佐田の若奥さんが遠い親戚の所へ、どうでも行かねばならぬ用件が出来て行かれた。そこのご主人はもうふっての信心嫌い。それでも佐田さん方がご信心に成って居られる事を聞いて居られた訳です。
それでもう大変な信心嫌いで信心話でもするなら、俺家に来ちゃ出来んと云われる様に、信心嫌いらしい。ところがある用件でたまたまやらせて頂いたら、もう本当に恵美子さんともかくま聞いてくれと云うて、難儀な話を話されたそして日田の本田さんのご姉妹らしいのですが。ですからあちらの妹もあんな遠方から、合楽にお参りして来よると云う事を聞いて、あなたも毎日あちらにお参りされると聞いて一辺尋ねてみて。
大体、その人は、人に腹の中を打ち明ける様な人じゃないらしいのですけれども、もう本当に苦しいんですねえ。それでその事を恵美子さんに話された。そこでなら合楽の信心を一生懸命何時間と話した。もうその時に私はこげなおかげを受けた、あげなおかげを受けた。と云う様なおかげ話ではなくてねえ。信心のおかげを受けたと云う事をです。どうして、あげなふうにして、話が出来か自分でも解らん。
まず天地のご恩徳天地の道理、金光様のご信心のいわば真の信心と言う事。それは、信心と云う事が幾らもある。ですから最近はその方は、私は高塚の地蔵さんになっとん参って見ようかと云う様な話からです。いわゆる本当の信心も沢山有るけれども、この様な信心が有るんだと云う事をですね。もう向こうもそれをいちいち合点して、本当にそれ良う解って行かれる様な風らしいのです。
そしてま言われるのに、最近はあのように主人が、信心嫌いだったのが、まあ子供さんの事で難儀な問題が起きてますから、高塚の地蔵さんになっとん参って身るかと、云った様な事を、ご本人が云われる様に成って来ておると云う事。いわゆるお参りをしてこう云う御利益を受けたじゃ無くて、その信心をいわば語られる。そして自分で恵美子さんが話したあとにたまがっておられる訳ですよねえ。
自分でどうして、ああ言うお話が出来のであろうかと。もちろん自分が話したとは思えません。神様が話させて下さったと。その神様が話させて下さる程しに、自分がいわば一段一段信心を進めて居る事に、改めて気が付いた。人にお話をしてみて。成る程共励会なんかん時に色々同等の、ね、立場で信者同志のいろんな信心のお話は致しますけれど、全然なら信心の無い。
いわゆる求信者ですたいね信心を少し求めて居られる、そう云う人に対して只こげなおかげを頂いたと云うおかげならば、まあ出来ますよ誰でも、けれども信心のおかげを受けておる、いわゆる神信心が少しずつ出来て行よる。それを自分の頂いて行よる信心を、この様にまで語れると云う事がです。お話をしてみてこれだけは、自分のものに成って居るなと云う確かめが出来たと云う訳です。
皆さんも一つ本気でね。お話をなさってご覧んなさい。どの位自分のものに成って居るか嬉しいです。そしてその話を本当にまぁ難儀な氏子と云うですか、自分の周囲の人達にでも、話をして行きたい。それが六十節には、「神になるのぞ。」とも仰るし、そうして人を助けて行くと云う事になる。今日は、皆さんもご承知の様に、先日から連絡を受けまして、あのう御本部の教徒社の方が此処みえられます。
そしてまぁ久保山さん一家の信心を聞いて下さる事になり、それがま云うなら全教に伝えて下さる事になる。これはもう大変な有り難い事だと思いますねえ。「人に伝えて行くのが神へのお礼ぞ」と。自分達がいわば20年間からの信心をです。ずっとおかげを受けて来た事を、一段一段おかげを積み上げて来た事をです。お母さんはお母さんの立場で、子供達は、子供達の立場でその語られる。
しかもそれが沢山の人に聞いてもらえれるお話をなさる訳ですから。私はもう本当に、切実にですねえ、今日の此の御理解の所の内容にですねえ。「それが神に成って行くのぞ」と、61節に言うて居られます様に、一段一段進んで行くのぞと云うですねえ。そう云う味でね、おかげを受けて頂かねばならんと思います。ですからねえ。本当にですねぇ、おかげを受けて来た迄でいいんですよ。
受けた以上の事を言うことはいらん。また受けた以上の事ほ事云えませんけれど、受けて来ておる事を言やあいいのです。まぁだこれから云うなら限りなくおかげを受けて行かれる事だろう。今が小学校であるとか中学校であるなら、中学校にやらせて頂いておる所の、いわゆるおかげを受けて来た事を実意丁寧に、それこそ人へ伝えて行くと云う働きがですねえ文書の上でなされる訳です。
だからもう本当に私どもの一言一言の、まお話をさせて頂く此のお話がです。神心と成りて、その一言一言が伝えられ、どうぞ世の中の多くの信心を求めて居られる、また助かって頂かなければならない人達が読んで頂いて、本当に助かって頂く事の願い、祈りを持ってのお話でなければならないと思います。私昨日の朝のご理解の中でも申しました様に、その事に付いてね。
久保山一家がこうして云うなら、合楽の信者を代表して話をして頂くと。本当に久保山先生の御霊様がどの様にか喜んで下さる事であろうかと。私にとっても久保山先生に対して、鼻高々と。云うなら「あんたも喜びなさい。こげなおかげ頂いて来たよ。」と。まぁ御霊様に一番、たむけになるだろうと思われる。と云う様な意味の事を申しました。その事を昨夜、御霊様にお礼を申し上げる時に。久保山先生こうですよと云う意味の事を、お話掛ける様な積りで話し掛けよったら。
先生は眼鏡を掛ちゃったが、眼鏡を掛てからあの涙をふく時に、眼鏡をこう取ってから、眼鏡を手で拭くでしょう、そう云う形をしよんなさるけれども、実際は一つも涙も出とらんと云う感じなんです。いうなら、喜んで居られないと云う感じなんです。それで私、ちょっと私はっこう押しておるものが、ホッとこうすかされたような感じがしたんです。けれども矢張り合楽ではなら一番最適な家族であり。
人達であり矢張り合楽では何と云うても、久保山先生の所が一番おかげを受けて居るのだけれど、そんならその中の一人一人の信心の内容と云うものを思うた時たい。果たして、どの程度に助かって居るかと云う事なんですよ。久保山先生が本当に喜ばれるのは、合楽の本当に合楽の神信心を頂いて、家内があの様に助かって行きよる。子供たちがあの様に助かった世界にあると云う、それが喜びである。
それを伝えれるとしたらどんなに嬉しい事で有ろうかだけれども。ただおかげは受けて来ておるけれども、人間そのものはその様には助かってはいないと云う事。はぁ私はそれを頂いて、厳しいと思うた。その前の晩の永瀬さんの所の宅祭りの時も、神様は厳しいなあと思うた。そんなら久保山だって合楽の本当に代表として、あそこよりも此処がいいですよ。と、云う人は誰あれもおらんだろうと思います。
そんなら永瀬さんの信心と云うたら、もうこの人達の右に出る者は恐らく居ないだろうと思う様な、そんなら信心もなさるし、人物から云うてもそうでしょうが。それでも神様は、てんぷらだとおっしゃったからねえ。宅祭りの時に。私は、本当にそれを言うのに辛かった位でした。
これだけの思いと真心を込めてですよ。あれだけのお祭りをなさったんです。たとえばね。お供えもんの事を言うちゃならんばってん、鯛を頼まれた時に、こん位の鯛が来たら、こげなんじゃお祭りは使えて頂けん、と云うてもうそれこそあっちこっちを探された。ところが鯛一匹が一万円したと。そう云う思いを結集してですよ。云うならば一年間の自分の信心を結集して。
その思いをあそこに集めてあの様な、見事なお祭りがなら出来たにもかかわらず、神様は、まあだまあだと言うち御座る云うたふうな。 まあ言うならねまあだお前のは、てんぷらじゃと。てんぷらという事は中身が無いと云う事。本当に厳しいあれがもし小学校か幼稚園の信心なら、是はもうちょいと褒め讃える事でしょう。けれどもまあ云うなら永瀬さんの信心はもう大学生大学生としては、まだまだと云う事でしょうねえ。
いわゆる総代としてはまだまだと云う事でしょうねえ。合楽の云うなら一番の云うなら信者とでも申しましょうか家族を上げて、そして合楽の一番のおかげを受けておる信者を、紹介してくれと云われりゃ、まあ沢山さんあるけれどもその中で寄りに寄ったら、久保山だろうと云う事に成って、今日は久保山さん一家がお話をなさる事に成ったんだけれども、ね。お父さんの久保山先生からご覧に成るとです。まあだまあだと云う事なんです。まあだ自分は本当に満足しとらん。
本当に喜んどらんと言う事なんです。
ほんなこて先生の手前にでん、涙流して、喜ぼうごたるばってん、まぁだそげにゃ喜ばれんと此処にね。これからの久保山の信心があると思うのです。助かると云う事においてはね、限りがないのです。だから私は此処までおかげを受けておる、そこん所をです。謙虚に謙虚に此処まで受けておると云う事をですね。話されたらいいと思うのです。二十年間の久保山一家の歩みと云うものを。
けれどもまぁだまぁだあいすまん事ですけれども、これだけの教会に御縁を頂きながら、これだけ日々有り難い御教えを頂きながら、これ以上の助かりはまだ出来ていない事がね。云うなら謙虚な姿態度と姿と云った様なものに、勿論表れて来なければならないと思います。そう云われてみると私の信心だって。だから永瀬さんに私が云うのです。御直会の時、御神酒を永瀬さんに差しながら。
まあいっちょてんぷら同志で、しっかりやりましょうやと。私自信がてんぷらだ。成る程形はこの様に見事に出来た。例えば昨日あたりのお月次祭なんか頂いておりましたら、もう本当そうにゃ内容が立派だから、あれだけのお祭りが出来るだろうと、思われる位だけれどもいわゆるおかげは、あの様に下さってあるけれども、内容を思うたら貧弱なもんだと。まぁ私に言うて下さるなら、どう云う事に成りましょうかねえ。
やっぱりてんぷらですね。ただ合楽の信心の取り得はね。同じそのてんぷらでもその永瀬さんの所で頂くのは海老天、海老のてんぷらもうてんぷらでは最高です。海老天、海老のお知らせと云うのは、いわば窮屈な中で今は苦しい難儀な中にでも、じっと辛抱力が出来て行きよると云う、御理解意味の事なんですね。海老のお知らせと云うのは。それはなら永瀬さんの信心から云うても、久保山の信心から云うても、私の信心から云うても、そこの所は段々おかげを頂いておる。
じっと辛抱する力が出来て行きよる。ほんなもんじゃないけれども、まぁほんなもんを目指して、一生懸命、信心の稽古をさせて頂いておる。ですからそこまでがね、お話になればいいのです。本当に此の様におかげを受けて、もったいない様なおかげに成ろうと。久保山の場合。これから久保山の家に、神信心に付い来るおかげは、限りなく是からも頂く事で有りましょう。
けれどもそれが広く大き、頂けて行く事のために、いよいよ私共の信心が、広く大きく、お育てを頂かなければなりません。一段一段と、信心が進んでいかなければなりません。その、一段一段と云う所がです。私は、信心が云わば、詳しく成って行くと云うのではなくて、今まで頂いて来た、いわゆるおかげが、云うなら、このお広前のこの様なのもであって、こう云う見事なお広前建立されたと云う御広前の様なものであって、そのお広前の、この教会の内容がです。
これから一段一段一つ一つ中に詰めて行かれなければならない。それは本当にそうですもんねえ。久富さんが、久富繁雄さんが、何時も言われる。私がまぁ誉めると云うか良い信心と云う時にはもう、秋永先生やら、久冨繁雄さんが、まぁ何時も誉められなさる。それで先生のいわれる事と言うたら、まるきりすらごつじゃなか、けれども先生はあぁいうて下さるけれども、本当に自分の信心思うたらもう恥ずかしゅうて、そげなもう本当に恥ずかしゅうて、穴でもありゃ入りたいと繁雄さんが云う居ります。
今度御本部の新聞社の方がみえます。この次には、この頃からあの玄潮と云う雑誌が出とりますね、皆さんに取って頂こうと御願いして居りますあれなんです。玄潮社が此処に教会探訪をやるそうです。その時はひとつ、久富繁雄さん、あなたにお願いしますと、若先生がいいよりました。「ぞうたんのごと。」と、云うてからもう逃げて回って居られましたが、けれどもあなたの様な信心が一番受けると思うから。
どうでもお願いしますと、いいよりましたけれども、「いいえ。」と。それは私は自分の信心の内容を知って居られるからだと思います。先生が何時もお話をされる様に、ひとつの、本当に、素晴らしいお話として、あのう久富さんが怪我をされて入院された時の話やら、あの豚の話やら、もう、本当に、合楽のある限り、ああ云う話は残るだろうと思うです。何時までも。素晴らしい話なんですけれども。
けれどもその時の、自分の信心の内容と云うものをです。思うた時にもうあげん云うて頂くなら、どんこん居るどこんなるごと思うと云われる。これはもう皆同じです。それはもう私の信心を始めとしてそうなんです。ですからそう云う云うならば、おかげを受けておる事は事実ですからその中ににです。私は一段一段一つ一つ詰めて行くと云うか、登って行くと云う信心。最後に「一段一段、進んで行くのじゃ。」
と云う所は一段一段進んで行くと云う所は、一段一段登って行くと云う事なんですから、自分の信心の視野と云った様なものが、非常に広くなったり、高くなったりして行かなければなりません。でなかったら、信心が一段一段進んで行きよるとは思われません。ね。と同時にですね。佐田さんの礼を持ってお話しました様に、其処に本当にその人に信心を聞いてもらう。自分たち一家がおかげを頂いておる事を聞いてもらう。
聞いてもらう事によってです。じぶんの信心を確かめて見る事が出きる。そしてそれは、非常に信心の上達を早める事にも成ると云う事をですねえ。佐田さんが体験された事を、お届けして居られました様に。 やはりそして、「後に人を助けてやれ。」と云う事は、おかげを受けたその事を。また、受けたそれ以下の事をならです。話にしてあげれる事ができる。その話をです。
自分は何処まで頂いて居るかと云う事をです。おかげを頂いて居る事を話をしてみて改めて気が付くのです。ですから神信心をしても、「わが身の上におかげを受けて、後に人をと。」云うて居られます。わが身の上におかげを受けると云う事はね。云うならどんなに初信の人でも、たとえば、金光様の御信心は有り難いなあと、感じだしたらもうすでに、おかげを受けておる訳ですからその事だけが、やはり人を助ける為の働きとしてですねえ。話に成って行かなければならない。
例えて云うならば今日の久保山さん達のお話もそんです。そんな訳ならほんなこて先生がおっしゃる通り内容が無いと出来ん、お話が出来んと云う事とじゃないのです。本当に信心が無かったらと思う事。又は信心教えによって体験させて頂いて来た事。此の様に間違いが無いと云う事が解りながらも、まあ出来んけれども間違いない体験を受けて来た事。ですからそこまで助かってない。処まで助かっていない人達の為にはです。それはもう本当の声ですから。
しかもその内容として祈りがです。どうぞ人の助かる事の為に、神心と成りてですね。話して行かれる所に、生きた働きと云うものを、表して来る様なおかげが頂かれると。私は、その今度、教徒新聞に、それが発表されて、その反響を楽しみにして居ります。それには、どこもでも、今日私が申します、ほんなもんじゃないけれども、ここまでは、おかげを受けておるから、此処までのお話がです。
実意丁寧にです。どうぞ此の様な場合、此の様にして助かって来たと言う事実だけをですね。皆さんに丁寧に伝えて行けれる。しかも一人二人ではない。文書をもっての事ですから。沢山の人に伝えて行けれる。その中に幾人かでも、本当に助かって下さる人があるなら、有り難いなと。それこそ神様へのお礼の積りでですねえ。お話をして頂かねば成らんとこう思うのです。
今日62節を例えば今日の、御本部から見えての、久保山一家との対談が成される事でしょうが。その事を通してです。62節から、今日頂いた訳ですけれど、これは久保山さんとか、永瀬さんとか、佐田さんの例を取りましたが、お互いの上にもひとつそう云う所を実行したり、又、反省したりおおいに、一段一段進んで行く事の為めの、信心が練られなければならんんと、思うので御座います。
どうぞ。